天皇陛下とは祈りである。祈りで民族を導いた有史以来もっとも高貴な存在である。日本には祈りの力がある。そして
その祈りの力「奇跡という必然」を我々日本人は実際に経験しているのである。それは平成十八年九月六日悠仁親王殿下の
御降臨である。悠仁親王殿下御降臨以前は、男子のいない皇族方を心配し、女性・女系天皇論を唱えるいわゆる有識者と呼
ばれる方々が蠢いていた。平成十八年初春、秋篠宮妃殿下御懐妊の報は我々日本人の心を湧きたて、男子の御降臨を願い
祈った。多くの日本人が希望を持って祈ったのである。日本人の祈りは天に届き、奇跡という必然を招いた。女性・女系
論者は消滅はしないが、影を潜めた。日本人の祈り、まごころには奇跡という必然を招く力がある。

 平成二十九年一月十日平成は三十年で区切られてしまうと報道された。(その後平成三十一年四月三十日と決定)その
ことの是非は問わないが、今上陛下の御言葉を拝した弊會は、大御心は國神社御親拝にある、このままでは、天変地異、自然災害、または戦争の災禍にみまわれてしまう恐れがある。何より天皇陛下にも二百四十六万六千余柱の忠霊にも申し訳が立たないと、全国五十二社の護國神社を昇殿参拝でご祈願申し上げることこそ、日本人としての正しい行いと信じ、平成二十九年四月二十二日國神社春季例大祭から、皆様のまごころをお預かりし、二十八日間で全国の護國神社を車に寝泊りし巡拝申し上げた。

行動は言葉より雄弁である

 平成二十八年八月八日異例の天皇陛下の玉音を賜った。その冒頭に「現憲法下での象徴としての立場」とういう御言葉を拝し、即位以来日本国内のみならず海外への行幸啓、慰霊への並々ならぬ御意思を拝見していた小生は、これは天皇陛下が国民に対し、「象徴」「現憲法」に対しての疑問、畏れ多いことだが、残り時間内にどうしたら國神社へ行幸することが出来るのか、ということを投げかけられたように感じた。

 行動は言葉より雄弁である。平成十七年サイパンへの行幸啓、平成二十七年パラオ共和国への行幸啓は日本人を感動で包んだ。正に祈りによって民族を導く天皇陛下の御姿そのものである。そしてそれは万世一系のまごころ大御心を天皇陛下という存在が民族に示す行動実践である。

 先帝陛下昭和天皇の國神社御親拝は、所謂戦前、戦後あわせて二十八回の御親拝を賜っている。昭和二十二年の現憲法施行後も七回の御親拝を賜る。それが何故昭和五十年十一月二十一日を最後に途絶えてしまっているのか。

 天皇陛下の御存在は権力者ではない、天皇陛下は憲法と法律に縛られ、御自身の御意思を貫くことは非常に難しい。宮内庁をはじめ関係省庁に管理されてしまっている。それでも、昭和五十年までは正しく天皇陛下の御心を忖度できる正しい日本人の側近が多くいた。

 昭和二十七年日本が主権を回復し経済復興を最優先した時代、占領中公職追放によって復権した社会主義者たちが蠢き、国民の生活安定を優先する保守系政治の隙を突き反国家主義者、所謂「天皇制反対」主義者を育てた。反国家主義者の最終目的は「天皇制打倒」であり国家壊滅に他ならない。

 昭和四十年代には「國神社国家護持法案」を巡り国会では熾烈な攻防が繰り広げられ、「國神社国家護持法案」自体に重大な瑕疵があることなどから保守系からも反対意見が多数出たことから最終的に廃案に追い込まれた。同時期に経済成長を続ける日本とは裏腹に、世界ではベトナム戦争、支那文化大革命という有事も決して無関係ではない。

 昭和五十年代には、昭和五十年五月三日稲葉修法務大臣「自主憲法制定国民会議」出席での「私人」問題、八月十五日三木武夫首相の「私人」発言が公人の「公私」論議に発展し、畏れ多くも天皇陛下の「公私」に至った。それが昭和五十年十一月二十日第七十六回内閣委員会である。
富田メモの真実

 この十一月二十日とは、戦後三十年の節目に國神社御親拝を賜る十一月二十一日の前日である。この御親拝前日という宮内庁をはじめ警備当局関係機関全てが慌しい前日に宮内庁から参考人として出席したのが当時宮内庁次長の富田朝彦氏その人である。富田メモの富田朝彦氏である。富田朝彦氏とはいかなる人物であったか、大正九年生まれ東京帝国大学法学部、海軍主計大尉、戦後内務省、警察庁警備局長を経て昭和四十九年に宮内庁次長に就任した。人となりは分からずとも、経歴だけ見てもエリート中のエリートであることが分かる。そしてその宮内庁次長就任一年足らずの富田朝彦氏を内閣委員会で吊るし上げたのが

野田  哲 社会党参議院議員 岡山県出身福山市役所自治労

秦   豊 社会党参議院議員 愛媛県出身NHKニュースキャスター

矢田部 理 社会党参議院議員 茨城県出身弁護士

の三人である。この社会党の三人が入れ替わり立ち代り優秀なエリートの富田朝彦氏を半ば屁理屈のような言葉で攻め立てた。はっきりと「天皇皇室」を否定し批判する輩の言葉は活字では伝わらない侮辱と挑発に満ちていたはずである。

その悪意に満ちた言葉の攻撃で、翌日に控えた天皇陛下の御親拝を憲法第七条国事行為の確認を持ち出し、お馴染みの憲法第二十条政教分離で御親拝の中止を要求したのである。

 このことが宮内庁、富田朝彦氏のトラウマとなり昭和五十三年に宮内庁長官に昇進し昭和六十三年六月の退任から現在まで、宮内庁の暗黙の了解か明らかな申し送りかは分からないが、間違いなく踏襲され現在に至っている。

富田メモが書かれたとされる昭和六十三年四月二十八日、富田朝彦氏が退任を間近に、天長節を翌日に控え前年から御不例の先帝陛下から労いの御言葉があったと推察される。富田朝彦氏本人はこのメモを公開するつもりなど毛頭無かったはずである。飽くまでも推理であるが、天皇陛下から労いの御言葉を頂戴し、戦後四十年の節目に天皇陛下の御心を知りながら御親拝を実現させなかった罪悪感や贖罪意識が、自己の正当性を裏付けるための葛藤となり所謂「戦犯」合祀を自己弁護のために「天皇陛下が戦犯合祀を不快」という意味合いのメモを書かせたのではないかと思う。もしかしたら富田朝彦氏本人のメモ自体が存在しないものかも知れない。

昭和殉難者の合祀は昭和五十三年秋、その年の春、筑波藤麿宮司の逝去に伴い七月に宮司に就任した松平永芳宮司の英断によって秋季例大祭に合祀申し上げられた。まるで松平永芳宮司が独断で合祀申し上げたようにいわれているが、昭和殉難者の祭神名票は昭和四十一年に厚生省引揚援護局より國神社へ送付されていて、崇敬者総代会はすでに合祀を了承していた。つまり、筑波藤麿宮司も合祀は了承していたのである。しかしこの時期「國神社国家護持法案」を巡る攻防とベトナム戦争の影響からか合祀に慎重になっていて結局合祀申し上げる前に筑波藤麿宮司は逝去された。

所謂「富田メモ」なるものに出てくる松岡(松岡洋右元外務大臣)白鳥(白鳥敏夫元イタリア大使)は政治家、役人であり軍人ではない。その意味で昭和天皇が「何故?」と疑問を持たれた可能性派は充分あると思うが、祈りの存在であられる天皇陛下が、天皇陛下の御立場で故人を非難することは考えられない。ましてや「天皇陛下万歳」と散華された忠霊の鎮まる國神社、明治大帝の思し召しで御創立された國神社に鎮まる忠霊を、大和民族を導く天皇陛下が否定することなどありえる訳が無い。全ての原因が前述した昭和五十年十一月二十日第七十六回内閣委員会にあった。

 現在では、首相や閣僚の参拝に支那中共と韓国の圧力云々が春秋の例大祭、八月十五日で報道されるが、これらは昭和六十年の中曽根康弘から出てきた話で、御親拝中断とは別の問題、新たに出てきたのか、作った問題である。それを天皇陛下の御親拝が途絶えた理由が国内の政治問題であることを公にしたくない勢力が、これ幸いにと利用しているのである。または、自分達の怠慢を誤魔化すために、反日報道機関を利用して支那中共などを動かしたのかも知れない。全て行ったのは、富田朝彦氏を攻め立てた社会党勢力ではない、所謂保守陣営である。 この保守陣営が「東京裁判史観」に魂を売った昭和五十年代前後には、よど号事件、浅間山荘事件、ダッカ事件、北朝鮮による日本人拉致、教育現場では中学校での校内暴力が発生したのも昭和五十年代である。経済発展を至上の目的としエコノミックアニマルと世界から嘲笑されたのもこの前後である。

皇族方の参拝

 小生は今まで間違っていた。首相の國神社参拝が天皇陛下の露払いとなり御親拝への道だと勘違いしていた。総理大臣とは所詮選挙で当選し、政党内での駆け引きで出来上がる俗物である。そんなものの参拝を忠霊の皆様は待ってはいない。忠霊が待ち望まれているのは、大元帥であられる天皇陛下ただ御一人である。忠霊の皆様は、大元帥であられる天皇陛下の御親拝を賜る國神社に祀られる、その栄誉と誇りが日清、日露戦争と我が国を護り、大東亜戦争では白人至上主義と戦い、負けはしても國體を護持せしめた。

小生自身が良く口にする台詞であるが「それでも春秋例大祭には勅使の参向をいただいている。勅使は天皇陛下そのものである」と、しかしこの台詞は負け惜しみである。参道で誰も勅使に対し「天皇陛下万歳」を唱えることは出来ない。そしてこの途絶えることの無い勅使の参向、皇族方の参拝こそが大御心なのである。春秋例大祭での勅使の参向、皇族方の参拝は慣例や儀礼ではない。大御心の下途切れることなく継続されている。

天皇陛下の國神社への想いは平成十六年南部利昭第九代宮司就任にも充分示された。学習院の後輩で霞会の一員である南部家四十五代当主南部利昭氏は所謂「賊軍」である。宮司就任要請には逡巡があったそうで、就任を辞退するつもりだったらしい。しかし、天皇陛下からの「國神社を頼みますよ」の一言で宮司就任を決意なさったそうである。南部利昭宮司就任後の活躍は、國神社に変わる「国立追悼施設案」所謂「A級戦犯分祀」に強く反発された。平成二十一年一月七日昭和天皇祭を奉仕奉った後、宮司室で心臓麻痺でお亡くなりにならなければ、南部利昭宮司は今上陛下の御親拝を奉仕奉ったのではないかと思うと非常に残念である。

余談ではあるが、南部利昭宮司は春秋例大祭で三笠宮ェ仁親王殿下を到着殿で奉迎申し上げる際に到着殿前で「ェ仁親王殿下万歳」と奉迎申し上げる人々の姿にェ仁親王殿下が非常にお喜びいただき、そのお姿に南部利昭宮司は涙を流して喜んでくださった。その「ェ仁親王殿下万歳」を唱えていたのが私たち靖國會の有志である。この逸話は南部利昭宮司を偲ぶ会で披露された話である。また、平成二十四年ェ仁親王殿下薨去の際には、霊柩車が病院から赤坂御用地へ戻る途中國神社中通正中にしばらく停止した。

今を生きる日本人として

 御世代わりまで残り一年、万が一平成の御世に御親拝なき場合、東京裁判史観に毒された勢力は、所謂「A級戦犯」批判を「富田メモ」を後ろ盾に改めて始める。今現在でも、「富田メモ」にある白鳥、松岡と二名の苗字は言わず、「A級戦犯」合祀に天皇陛下が「不快感」を示し、御親拝が途絶えた。と敢えて「A級戦犯」を強調する。すると自然に所謂「A級戦犯」とは東條英機大将をはじめ軍人が思い浮かんでしまう。明確な印象操作とさりげない捏造である。こうして大東亜戦争は所謂「A級戦犯」と軍部の暴走が引き起こした世界に謝罪しなければならない大犯罪へと昇格する。一般庶民は、それほど事細かに検証はしない。日本では、報道機関への信頼度は異常に高い。新聞の見出しで繰り返し「A級戦犯」と活字が躍れば、今現在でも所謂「A級戦犯」は存在してしまう。事実関係は無視し、大気圧のように国民に贖罪意識、罪悪感を植え付ける。そして同時に所謂「A級戦犯」に「不快感」を持った昭和天皇そしてその意思を踏襲あそばされた今上陛下を平和の象徴とし、國神社を根底から否定する。また、忠霊を崇敬する国民には「たった数人の「戦犯」の存在が不快であるから天皇陛下万歳と散華された二百四十六万六千余柱の忠霊を無視する」と天皇陛下を貶め、国民との間に溝を作る。

 明治維新から百五十年國神社御創立百四十九年は正に近代日本が国際社会の中で歩んできた歴史である。人種、宗教、言語の違う民族が発展を目指し覇権を争い衝突を繰り返したのは必然である。そしてこの必然は決して絶えることの無い人類の歴史である。責任ある国防に携わる高官が「日本は良い国だった」と、民間に論文を発表し罷免されるような政治体制で、誰が命を賭けて国を護るのか。たまたま七十二年間戦渦に巻き込まれずいただけである。望まぬ災いは必ずやってくる。

 昨年、平成二十九年の流行語大賞は「忖度」であった。今、正に私たち日本人が本当に忖度しなければならないのは、天皇陛下のまごころ、大御心である。繰り返しになるが、天皇陛下は権力者では決して無い。現憲法と法律に縛られている実に御不便な思いをなさっているに違いない。天皇陛下がいかに御望みになられていても御自身の御希望通りに自由に行幸することなど出来ないのである。

 天皇陛下は國神社御親拝を御望みになられている。御親拝実現は、今を生かされている日本人の過去と未来の日本人に対しての責任と義務である。